平穏な朝
激しい口渇症状と尿意で私は目をさました。
目の前には見慣れない広々とした天井。
そうだ、私は入院していたのだ。
私はベッドの上で上半身を起こし、テーブルの上のカップを手に取り水を飲んだ。
そして、すぐさま飲水量をシートに記入。
記入し終わると、ベットから降りてスリッパを履き、トイレに直行。
もはや一刻の猶予も許されない。
トイレに行くと尿瓶棚から瞬時に自分の名前が書かれてある尿瓶を探し出し、それを手に取って個室に入り排尿。
ああ、排尿した瞬間の解放感。
人生における至福のひとつといっても過言ではない。
排尿が終わると今度は尿瓶の中の尿を計測器に入れなければならない。
私は個室を出て計測器に向かった。
そこに昨日のおばはんの姿はない。
今日はついてる ♪
部屋の戻り、ベットの上でぼ~っとしていると、今日の担当のナースがやってきて血圧を測った。
「上が120、下が80です」
いつもよりそれぞれ10以上低い。
病院の食事のお陰だろうか?
「昨日の飲水量をチェックしますね」
テーブルの上に置いている飲水量チェックシートをナースが確認した。
昨日の飲水量は1リットルを少し超えた程度。
といっても、計測を始めたのは午前11時頃だったから、およそ半日の飲水量だ。
今日からが本当の飲水制限の始まり。
気を引き締めなければ。
「お食事が用意できていますのでどうぞ」
飲水量計測カップを手に取り私は食堂に向かった。
研修医の注射地獄2連発
食事を終え部屋に戻ってから、ベットの上でぼ~っとしていた。
そこへやってきたどう見ても20代前半にしか見えないピチピチした若い女性研修医M。
「検査の前にルートを取ります」
そういって研修医Mはテーブルの上に注射器を並べ始めた。
ルートを取る・・・
ああ、点滴をするために血管に針を刺しておくことか。
今日はこれからフロセミド立位負荷試験をするからな。
研修医Mは無言で粛々と私の腕にルートを取る準備を進めていた。
「腕はどちらがよろしいでしょうか?」
「ああ、では左腕で」
Mは私の左腕をそっと手に取った。
そして、しばらく肘の裏を見つめていた。
私の腕はいわゆる普通の成人男性の腕で肘の裏にはくっきりと太めの血管が浮いて見える。
太ったおばはんの腕の血管に注射をするのは難しいらしいが、私の腕で注射に失敗したという例はこれまで一度もない。
今日もいつもと同じように私の肘の裏には青いくっきりとした血管が浮かび上がっている。
そしてMはその血管を見つめている。
Mはその左手で私の左腕を持ち、その右手に注射器を持っている。
これからその先端の注射針が私の血管に挿入されるのだ。
子供じみていると思われるかもしれないが、私は注射をされる時、その瞬間を見ないことにしている。
気が付かれないように眼だけ反対方向に向けてなるべく他のことを考えるようにしている。
例えば好みのアイドルとデートしている場面など、だ。
加えて、針が刺さる直前からこれまた気が付かれないように軽く歯で唇を噛むことにしている。
唇を嚙むことで意識が注射針が刺さる痛みに集中しないようにするためだ。
決して人には言えないが、これは私が子供のころに編み出し、そしてこの年になるまで一貫して守ってきたルーティンなのだ。
もちろん、その日も私はこのルーティンワークを実践した。
そうすれば、さほどの苦痛も感じずに事は終わるはずだった。
!★?#&$★!/\?“※!★?!?!?!?!
かつて経験したことがないほどの激痛が私の体内に侵入してきた。
その激痛はさらに激しさを増しながら私の体内を駆け巡った。
痛みの震源地は左腕の肘裏。
何が起こったのだ?ただの注射じゃないのか!
私は自分の体に起こった異変を確認するために左腕に目をやった。
すると私の肘裏にはごく普通の注射針。
そして鬼の形相でその注射針の先端を見ている研修医M。
Mが注射針をさらにグイと押し込む。
するとまるで血管が私の腕から剝ぎ取られそうな激痛が走る。
そうか。
この激痛はMが注射針で私の血管を引っ張っていることで起きているものなのか。
そうか。
この研修医Mは私の想定を遥かに超えるほどにとてつもなく注射が下手なのか。
それを発見した時の私の顔はおそらく恐怖の余りひきつっていたに違いない。
私の視線を感じたMは私に向かって「あ・・・大丈夫ですか・・・」とつぶやいた。
「だ・・・大丈夫です・・・」
大丈夫なわけがない。
そんなことはMでもわかっていたはずだし、大丈夫ですと答えてそれをMが真に受けるはずもないことも私はわかっていた。
にもかかわらず、不毛な言葉のやり取りをしてしまうMと私。
「すみません、失敗しました。もう一回とらせてください」
Mは私の左腕の肘裏の血管に突き刺さっていた注射針を抜きながら、私にそう言った。
この時点で断ることもできたはずだ。
いや、断るべきだったのだ。
しかし、私は全く想定もしていなかった痛みと恐怖に突然襲われ、正常な思考ができない状態に陥っていた。
Mは何事もなかったかのようにして再び私の左腕をとった。
そしてMは先程と全く同じ動作で私の腕に注射針を押し込んだ。
そして私は先程と全く同じ激しい痛みに襲われた。
「あ・・・大丈夫ですか・・・」
「だ・・・大丈夫です・・・」
なぜ私はまたしても不毛な言葉を返してしまったのだろう?
私はお金を払って病院に来た患者なのだ。
いわれのない激痛を受け入れなければならない筋合いは何一つない。
それなのに私はまたしても受け入れてしまった。
医学の進展のため?
そう。
医学の進展のためだ。
名医、権威といわれる大御所の医者も始めはただの研修医。
注射も満足にできなかったに違いない。
しかし、それでも最初の下手くそな1本の注射から始まって、成長し、そして数多くの患者を救える医師に成長していったのだ。
この研修医Mもこれから多くの患者を救える医者に成長するだろう。
私はその一過程として、この研修医の痛い注射を受け入れたのだ。
・・・いや、
果たして本当にそうだろうか?
もし仮に私の体に激痛を走らせた研修医がどう見ても20代前半にしか見えないピチピチした若い女性研修医Mではなく、いかにもインテリ風な俺は選ばれた人間なんだ的な内心ではお前ら庶民など見下してますよみたいな感じのする若い男の研修医だったらどうだろうか?
それでも「だ・・・大丈夫です・・・」と答えただろうか?
あるいは注射針が刺さった瞬間に
「あ“ーっ!!ごるぁ!!痛いやないけぃこのうすらガキぃ!!はよ抜かんかいボケぃー!!」
と大声でどなっていたかもしれない。
そして針を抜いた瞬間に
「何さらすんじゃおどれー!!」
と叫びながらみぞおちに蹴りを入れ上げていたかもしれない。
あるいは。
「・・・すみません。ちょっとうまくいきませんでした」
そう言いながらどう見ても20代前半にしか見えないピチピチした若い女性研修医Mは私の腕から注射針を抜いた。
私は思わず「だ・・・大丈夫です・・・」とMに向かって優しく微笑みながらそう言った。
研修医M。
やはり只者ではなかった・・・